あまねく天の童
▮ 天童山 桃林寺の沿革
宗 派 :臨済宗 妙心寺派
開 基 :松平忠明公
開 山 :松隠宗岳禅師
中興開山:寳林慧充禅師
本 尊 :聖觀世音菩薩
脇 侍 :不動明王・毘沙門天
創 建 :元和五年(1619)大和国郡山
当山は、奥平松平家の藩祖・松平忠明公が、若くして世を去った兄・松平家治公を深く偲び、その菩提を弔うために創建した寺院であります。
奥三河の国衆であった奥平家十三代当主・奥平貞昌公は、天正三年(1575)、長篠城主として長篠の戦における功績により、織田信長公より「信」の一字を賜り、さらに徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えました。天正四年(1576)には新城城(現・愛知県新城市)を築き、在城十五年の間に家昌、家治、忠政、仙姫、忠明の五子が誕生します。
天正十六年(1588)、次男・家治は駿府城にて、徳川家康の養子となり元服、松平の姓を賜り、上野国長根七千石を拝領して奥平松平家を興しますが、文禄元年(1592)三月四日、病により惜しくも十四歳にて早世してしまいます。その後、四男・忠明が家督を継ぎ、後の藩祖となります。
元和五年(1619)、忠明公は大坂の陣の後、大和国郡山において、兄・家治公の菩提を弔うため、松隠宗岳禅師を開山として迎え、「天童山桃林寺」を創建しました。十四歳にして世を去った兄の生涯を偲び、「普く天の童」との意をもって、山号を「天童山」(テンドウザン)と定めたと伝えられます。
ご本尊は聖觀世音菩薩。脇侍に不動明王・毘沙門天を配し、武門を護り、人々を安寧へと導く守護觀音として篤く信仰されました。
以降、桃林寺は家治の菩提を弔うとともに、奥平松平家家臣の菩提寺として、歴代藩主の転封に随従して各地を移転します。
大和国郡山、播磨国姫路、出羽国山形、上野国宇都宮、陸奥国白河、再び出羽国山形、備後国福山、伊勢国桑名を経て、文政六年(1823)、武蔵国忍(現・行田市)へと移転し、明治維新を経て今日に至っております。
流転の歴史を経てなお、守護觀音の法灯を絶やすことなく今に伝える、奥平松平家ゆかりの禅寺であります。
「奥平松平家過去帖」(当山所蔵)より
右京大夫従五位下 家治公
戒名「桃林寺殿前右京朔公大禅定門」
「奥平松平家過去帖」より
創建当時より、人々を安寧へと導く守護觀音として、四百年にわたり信仰が受け継がれてきました。今もなお行田の地にあって、静かに人々を見守り続けております。
『慈光遍く照らし 群生を護念し 災障を消除す』
山門進んで正面にございます。台座手前の香炉にはお線香を備えておりますので、ご参拝の際にはどうぞご自由にご献香ください。
ご利益は、苦難除去・現世利益・病気平癒・健康祈願・厄除開運など、広く諸願成就をお祈りいただけます。
天正三年(1575)、長篠の戦に際し、籠城する城主・奥平貞昌のもとへ、武田軍に捕らえられ磔に処されながらも、織田・徳川連合軍の来援が間近であることを伝え、壮烈な最期を遂げた鳥居強右衛門。その子孫および一族の墓所です。
子孫は代々「鳥居強右衛門」を称し、奥平松平家の家老として仕えました。家紋は鳥居紋。
慶応四年(三月十日)、戊辰戦争のさなか、忍藩にも倒幕軍三百人が羽生陣屋へ押し寄せました。
忍藩衆合隊二小隊隊長であった丹羽蔀は、あらゆる説得を試みるも受け入れられず、組討ち寸前の緊迫した状況に至ります。
その時、蔀は決断し割腹。この姿に心を動かされた倒幕軍は、忍藩へ攻め入ることなく退き、事なきを得ました。忍藩は無血開城となり、その後の安泰の背景には、この丹羽蔀の決断が大きく影響したと伝えられています。
忍城下の歴史に名を残す武士であり、時に三十六歳でした。戒名:劍光院忠山義勝居士
資料:行田史譚
嘉永三年(1850)作。当山所縁の忍藩士の発願により奉納された涅槃図で、忍藩士の寄進名が連名で記されております。画面全体に金泥を施すという、極めて稀少な意匠をもつ大幅作品です。
本図は、釈迦入滅の日である二月十五日に行われる涅槃会法要にあわせ、毎年一般公開しております。
幕末に頻発した安政の大地震の被災者供養のため、当山十八世・長根陽岳和尚が、消災・飢饉除け・安寧を祈願し、松の下を行き交う参拝者を守護するよう、天を仰ぐ龍の姿に見立てて育てられた赤松です。本堂正面にございます。
孔子の「中庸の教え」を模した器です。孔子は魯の桓公の廟に参詣したとき、この宥坐之器を見て、弟子たちに「満ちて覆らない者はいない」と教訓しました。無理をすることや満ち足りることを戒める、目で見て体で体験できる機器です。
・器は空の時は傾き、
・器に水がほどほどに入ると起きてきます。
・水をいっぱい入れるとひっくり返ります。
作:舘林市銅司 針生清司氏