奥平松平家所縁の禅寺
天童山桃林寺は、徳川家康の長女亀姫の次男、松平家治公(桃林寺殿前右京朔公大禅定門)供養の為に創建された寺です。
奥平家六代当主である奥平貞昌は、天正3年(1575)の長篠の戦いでの功績が認められ、織田信長より「信」の字を与えられ信昌と改名。徳川家康からは褒美として、長女亀姫が奥平家へと嫁ぎ、信昌の正室となります。
天正4年(1576)新城城(現在の愛知県新城市)を築き、5人の子を授かります。新城での生活は15年間でしたが、家昌、家治、忠政、仙姫、忠明の皆が、新城で生まれています。
天正16年(1588)次男の家治が家康の養子となり元服。上野国長根7000石を拝領しますが、若干14歳で逝去。
その後、四男の忠明が家康の養子となり、松平下総守源、奥平松平家藩祖となります。忠明公は、兄、家治の供養の為に、元和5年(1619)大和郡山に桃林寺を創建。愛しくも14歳での生涯「普く天の童」として、山号を天童山(テンドウザン)としました。
奥平松平家は、三河国作手、伊勢国亀山、摂津国大坂、大和国郡山、薩摩国姫路城主として、君臨重要拠点に配置されます。
その後、子孫は、出羽国山形、上野国宇都宮、陸奥国白河、出羽国山形、備後国福山、伊勢国桑名を経て、文政6年(1823)に武蔵国忍(行田市)へと移封しました。
奥平家松平家の菩提寺である桃林寺(城西)、天祥寺(埼玉)、大蔵寺(駒形)、龍源寺(廃寺)の4ヶ寺共々武蔵国忍へと移り、現在に至っております。
今日に至る間、400年の宝灯を継承された奥平松平家、所縁の禅寺であります。
戒名「桃林寺殿前右京朔公大禅定門」
本尊は「聖観世音菩薩坐像」
開基は「松平下総守源松平忠明公」
開山は、妙心寺龍泉派下「松隠宗嶽禅師」
1874年(明治7年)当山十三世陽岳和尚が消災・飢饉・安寧を祈願し、松の下を通る参拝者を守護するように天を仰ぐ竜にみたてて育てられた赤松。庭園内の本堂正面にございます。
長篠の戦で、武田の軍勢に捕まり磔にされながらも籠城している奥平貞昌に、織田徳川軍の援軍が間近に迫っていることを伝え、絶命した鳥居強右衛門の一族とその子孫の墓。子孫は代々、鳥居強右衛門を名乗っており、奥平松平家の家老として仕えておりました。家紋は鳥居紋。
慶応4年、戊辰戦争の年の3月10日。忍藩にも倒幕軍300人が忍藩羽生陣屋に押し寄せました。忍藩衆合隊二小隊隊長だった丹羽蔀はあらゆる説得を試みるも容認されず、組討ち寸前の時、蔀は決断し割腹。これを目にした倒幕軍は忍藩に攻め入ること無く事なきを得ました。忍藩が無血開城となり、その後の安泰の背景には、この丹羽蔀の決断が大きく影響したと云われます。忍城下の歴史に残る武士であり、時に丹羽蔀36歳の御年でありました。(資料:行田史譚)
孔子の「中庸の教え」を模した器です。孔子は魯の桓公の廟に参詣したとき、この宥坐之器を見て、弟子たちに「満ちて覆らない者はいない」と教訓しました。無理をすることや満ち足りることを戒める、目で見て体で体験できる機器です。
・器は空の時は傾き、
・器に水がほどほどに入ると起きてきます。
・水をいっぱい入れるとひっくり返ります。
作:舘林市銅司 針生清司氏
桃林寺所蔵の嘉永3年(1850)作の涅槃図。毎年2月15日の釈迦入滅の日には本堂内に涅槃図を掲げ、涅槃会法要を開催。涅槃会当日のみ一般公開をしております。
当山本尊である聖観音菩薩の立像として参拝者様に御利益のお導きがございますよう建立。台座手前に香炉がありますので、備付けのお線香にてご自由に参拝いただけます。ご利益は苦難除去・現世利益・病気平癒・健康祈願・厄除開運。